地下聖堂

Nihilism fall the underground

無視

2月に行われた沖縄県住民投票

ハンストや様々な運動が行われ、関心が高まっていた中で私は虚しさを感じていた。

おそらく反対票が過半数をこえるだろうが、何も変わらない。そんな脱力感に襲われていた。

政府はその投票行動に法的な拘束力もなく、裁判には出来ないと投票日前に宣言していて、もはやここまで寄り添うというような言葉など嘘であると隠さずに居るのかと唖然としていた。

 

投票率は50%を超え、反対票は7割を超えた。

しかし連日の土砂投入は止まらず、埋め立て承認撤回もアップダウン丸出しに取り消された。

本土でも日に日に報道されなくなり、このままでは忘れ去られてしまうだろう。

 

民主主義の冒涜であるという論理はこの世界では通らない。

機能しない、するはずがないシステムの中で我々は問題を考えるべきではない。

 

単純に”民意が無視される”という事について考えなければならない。

 

*地政学的条件を語る者へ

 

近年ようやく話題になり始めた中国の経済が主な覇権への動きや、領土の問題からこの問題を語る人が居る。

地政学的条件的に沖縄は国防の要になるのだから沖縄には基地があるのが当然という意見である。

当然とはどういう事だろうか。

本土が押し付けてきた米軍基地を沖縄は受け入れろ。と言っているようなものだ。

基地があるということは当然脅威に晒される可能性が高い。

その危険性を我々は沖縄に担わせているのであり、それを肯定しているという事だ。

これは言うまでもなく暴力的であり、差別的である。

 

*であるならば、どうすればいいのか。

 

この問題は知れば知るほど根が深い。

サンゴやジュゴンの保護路線ではまるで歯が立たない問題である。

僕はこの問題に関しては対米追従への嫌悪や単純にカッコつきで日本を守る基地が沖縄に集中しているのはおかしいだろうという事から関心を高めている。

現政権を見れば明らかなのは、彼らはこのままアメリカについていき、アメリカに忖度して国内の政治を動かしていこうという路線を変える気は無いという事だ。

アメリカについていけば大丈夫。今のままならまぁいいかなという自分達が生きている間は安泰だろうという物に無条件に巻き込まれているのが現代の日本人だ。

 

という事は国内にあり得ないくらいの自律心がうまれなくてはならず、それは不可能に近い。

対米追従でも歯が立たない問題なのだ。

 

僕は単純にそれではこの国で日本人として生きる意味がないと思ってしまう。

この国で生きるのであれば言葉にはならない“理由”という物が欲しいと思うし、もしこの国が沈没するような事があっても他の国で生きればいいよねみたいな気持ちを持ってはいたくない。

これは自分がそうだから。ということでは無く、未規定ではあるがある程度予測が出来る未来についての思いでもある。

 

*ピティ 憐れみ

 

憐れみというのは日本語で言う哀れに思うという事ではなく、もっと純粋に僕たちが思う「ほっとけない」や「助けたい」「守りたい」と強く願う意思の事である。

 

この問題に関心を持てば、必ずやこの憐れみが生じるはずである。

が、前述した地政学的条件を語る者を含めた賛成派はそれを分かっているにもかかわらず、そうは言わない。

 

そうだけど、そうしたら損をするから。嫌だから。

私はこのような個人について思う事がある。

 

#人生を見通したつもりになっている。

彼らは自分の人生の向こう何十年が自分では分かっているというような誤解をしている。

それは自分が必ず損をしない、失敗しない事を選ぶだろうという勘違いからだ。

それは単に間違っている。

それはあらゆる偶然性や自分の行動がもたらす必然性から崩れていく。

このような人間は恒常性によってなんとか自我をささえる「自分は間違っていない!」と思うしかなく、私はそのような人間は虚しいと思う。

 

#自分の人生における偶然性や失敗に向き合おうとしない態度

彼らは失敗を恐れる。

失敗イコール損であり、損を恐れる。

こうしたら損だからそうしないようにしよう。これは個人のフィールドでは当然誰もが思う事だ。

しかし他人が絡んだり今回の問題のような国家が絡む問題にまで自分が損をしたくないから誰かに損して頂こうと思うような事には完全に反対したい。

自分が生きている間、つまり実存的な自分が揺るがされるのに耐えられない。

本土に基地があったら自分が危なくなる、損をする。

 

彼らは僕が思うに孤独であり、虚しいと思う。

 

#自分が何者かであろうとする気がない

彼らには本来での意味の個が欠けている。

自分が誰であるかは自分が決めるのではなく、存在する環境や他者によって自分の行動への意思決定がなされ、そこで初めて自分が個人になるのである。

これは悪い意味ではない。一見個性を蔑ろにするのかと言われるだろう。

しかしその環境や他者を見て感じて自分はここで何者かであろうとする態度こそ大衆社会で私たちが持つべき考えであり、さまざまな問題へ向き合う態度の持ち方に関して極めて重大な要素だと思える。

優しくしようとか助けてあげようという気持ちも他者を見てその感情が引き出され、他人を敬愛する自分であろうと思うのだし、激しい怒りや軽蔑の念を持つときは、誰かの為になにかと闘おうという自分であろうとする感情が生じるのである。

他人に突き動かされるという事と、自分が今そこにいて何者であろうかとする態度を彼らは無視して、まるで自分は自分であるというような気持ちを持っている。

 

@今後の沖縄へのまなざし

 

対米追従路線は崩れた。

国民の感情を動かせる装置的な物も無い。

私は米軍基地問題を国民の国への意識の問題であり、社会を捉えるという思考に活かしていきたい。

私はただ、必死に抗う者であろうと突き動かされたのである。