地下聖堂

Nihilism fall the underground

What I am Japanese? ...please give me reasons.

散文です。ご留意を。

 

私が思想や哲学を考えるきっかけになったものの一つに

 

なぜ私は日本人なのだろう?という疑問があったという事がある。

 

日本で産まれて日本の国籍を持っているのだから日本人である。という理由では全く納得が出来なかった。

欲しいのはそういった手続き的であったり概念創造的なものではなく、もっと根元的で情熱的な理由だ。

こういった希求はある種のロマンチシズムかもしれない。

 

よく聞くのは「海外の人は自分の国の事を嬉しそうに話すし自慢するけど、日本人って自分の国の事を自分の言葉で話すことが全然無いよね」というようなものだ。

 

確かにそうである。

日本人は勤勉で真面目で人に優しい。とよく言う。

しかしそうだろうか?  私はそうは思わない。

真にそういった人も確かに居るし、市民レベルで言えばそうかもしれない。

しかしもしそれが真実であれば、この国の状態の説明はつかないし、どこが?と思わずにはいられない。

そういった日本人の特性は外的な要因、つまり人に嫌われたく無いからというものや評価に関するからといった本能的なものではなくいわゆる外的*人間的なものだと思われて仕方ない。

 

二つ目に日本には素晴らしい文化がある。

確かにそうだ。しかしそれでは誇りであると胸を張って言うには足りない。

 

日本人に生まれた。

日本人に生まれた事を受け入れるという姿勢から自分から引き出して見ることにしよう。

 

人間は自分が他者によって自分というものを発露させられ、環境依存性が極めて高く、その中で色々な変数によって行動する意志などが決定づけられてるのだとしたら「使命」というワードが浮かび上がってくる。

 

使命といっても前述を前提とするならば自分がこうしよう、したいと思った時、それがまるで自分が考え内的に浮かび上がってきたものだと思うのだがそれは勘違いであって、何か外的な要因によって“浮かび上がらされた”ものである。

 

それは悪いことでは無い。

それを理解し、それを実現させたいと強く思う事こそそういった現実からの突破口なのである。

 

私は確信には至らないが、一つ発見した感情がある。

その説明に移っていこう。

 

最近戦争映画を見た。

 

私はこの映画を見てまず考えたのは平和というキーワードと日本人の使命についてである。

 

ご存知の通り、日本という国は核爆弾が投下された唯一の国家である。

そしてそこで重要になるのが、その爆弾投下は報復行動によってもたらされたという事だ。

その史実によって、平和を祈り、二度とあのような事が無いように世界に向けて発信し続けないといけない。という答えの一片が自分に見つかった。

 

日本人に産まれたんだから、お前らもこうしろよ。と言っているのか!とレッテルを貼られてしまうだろうが、こういった歴史的な物を反省し、伝えていくという使命を担っていると思うと生き甲斐とまでは言えないがなぜ自分が日本人なのかという命題の説明の一つになってくる気はしないだろうか。

当事者意識もないのに反省する事は難しいが、他者や国家の為に反省する。

それが国民性に影響し、国家を誇りに思えるようになるための第一歩だ。

 

なぜ私が日本人なのか?に答えられないのは、反省的になれず誇りに思うことがどうしても出来ないという人間最後の良心が残っていることを示している。