地下聖堂

Nihilism fall the underground

仲間を批判する前に考えるべき事

最近お笑い芸人が漫才の番組で政治的なメッセージを含んだ発言をしたという事で一部で話題になっている。

主張をなんとなくではあるが確認するとメッセージとしては完全に言論人の受け売りであるが、言っている事は分かる。しかし・・・・・・

 

 

正しい事を言う事と話を聞いてもらえるようになるという事は別問題

多くの言論人は時代に必要な意見や対話を本、インターネットなど様々なメディアで語り続けている。

しかし世の中のリアクションは依然として薄く、変革の気配は無い。

何故か?

単純に興味が無い、自分の生活や趣味で精一杯だという事もあるだろう。

中には興味はあるけど、周りに認識を同じくとする友が居ないなどで議論をする場が無い人も居る。

 

大ざっぱに言えば思想哲学に精通した言論人は”正しい”事を言うし、あらゆるアイデアで思想を展開している。

これは”本当は”必要な知識で、国家に生きる仲間として共有しなければならない事ばかりだ。

 

単純に考えるならおかしい事がそのままになっていて正しい事が求められない世界って一体何なんだろう?という疑問が浮かんでくるだろう。

 

現代社会にそんなものはいらない?

 

 

まず先に現代の哲学は社会から人間を切り離すツールとして認識されることが多い。

もちろんその為に哲学をする訳ではないが、古き人から現在まで哲学者はあらゆる理論を駆使して思想を展開してきた。 しかし世の中は変わらない。むしろ悪くなってゆく。

つまり”正しい事を言う”だけでは世の中に何の変革も起こすことが出来ない。

我々の世界は今その危機的な場面に直面している。

 

ここで重要なのが話を聞いてもらえるようにならなければならないという事だ。

国民に「お前ら馬鹿だ」「問題を放置してよくのうのうと暮らせるな」と上から目線で言うのははっきり言うが間違いである。

先ほど記したお笑い芸人は残念ながらこの枠に入ってしまっている。

〇〇に評価された、〇〇で何人集まってくれた。これははっきり言って無意味だ。

数百人単位でディバイドしても何も変わらないし、逆流性のような感じで不幸が生まれる危険性すらある。

正直言って自慰行為でしかない。

 

正しい事を言う事が間違いなのではなく、伝え方つまりコミュニケーションを取ろうと努力しない限り伝わらないのだ。

 

実存 他人 人生

 

 

いくら社会がクソであろうと政治家が強欲な支配者だろうと検察に順法精神が無かろうとその社会で生きているのが私たちである。

個人はその社会で生き、背負う物を受け入れ人生を全うする。

正しさを求めるという事は同時にその多くの人間の人生を破壊してしまう行為になり兼ねない。

よくサラリーマンで「こいつよくこんな所に40年もいれるな」みたいな勘違い強弁をする若者が多いが、彼らは背負っている物があり個人の選択の範囲でその会社に勤めているのだろう。それを簡単に碌な根拠も無く批判するのは馬鹿だ。

 

理想の社会は正義をより包摂してくれるだろう

しかし私たちは諦めなければならないラインを引くことを呪いを受けているかのように求められる。

即効性の媚薬など有り得ず、完璧な処方箋など出しようがないのが人間の社会だ。

 

僕たちが生きている社会 あるべき社会

 

 

夢の国を生きているという感覚は忘れないようにしたい。

並行世界的に言えば、今の世界は”ありえるようにした世界”だ。

現代は言葉の力より享楽の甘い誘いに皆が陶酔している。

そこで求められるのは哲学のハードパンチャーか、もしくはテクノロジーか。

自分とその周りさえ良ければいい、損するならやりたくない。得している奴はずるい。

そんな暗雲が世界を包み込もうとしているイメージが今日も頭を離れない。

埋め合わせをしてただひたすら消費し続けるという事を私たちは望んでいないはずなのだが・・・・・