地下聖堂

Nihilism fall the underground

経済的な問題

例え地下聖堂のような場所を造ったとすると経済的な面で大きな問題がある。

今の時代店舗を持つ必要もなくインターネットでという話もあるが根本的な価値、人間の感性の点からそれには様々な問題がある。

 

そこで考えたのは僕が何か手に職をつけるという事だ。

それで稼いでいけばいい。なんて楽天的なのだろうか。

 

僕には趣味がある。

それは製菓・製パン・料理。

なんでも自分で作ったり、やったりするのが好きで髪なども自分で整えていたりする。

趣味の中でも製菓・製パンは自分のやりたい事が詰まったお店を開くという点では自分の中で大きな夢でもある。

 

夢が広がっている。

現実的な問題はとりあえず置いておいて、技術をただひたすらに追い求めていく事に今の時間を使おうと思っている。

仲間を批判する前に考えるべき事

最近お笑い芸人が漫才の番組で政治的なメッセージを含んだ発言をしたという事で一部で話題になっている。

主張をなんとなくではあるが確認するとメッセージとしては完全に言論人の受け売りであるが、言っている事は分かる。しかし・・・・・・

 

 

正しい事を言う事と話を聞いてもらえるようになるという事は別問題

多くの言論人は時代に必要な意見や対話を本、インターネットなど様々なメディアで語り続けている。

しかし世の中のリアクションは依然として薄く、変革の気配は無い。

何故か?

単純に興味が無い、自分の生活や趣味で精一杯だという事もあるだろう。

中には興味はあるけど、周りに認識を同じくとする友が居ないなどで議論をする場が無い人も居る。

 

大ざっぱに言えば思想哲学に精通した言論人は”正しい”事を言うし、あらゆるアイデアで思想を展開している。

これは”本当は”必要な知識で、国家に生きる仲間として共有しなければならない事ばかりだ。

 

単純に考えるならおかしい事がそのままになっていて正しい事が求められない世界って一体何なんだろう?という疑問が浮かんでくるだろう。

 

現代社会にそんなものはいらない?

 

 

まず先に現代の哲学は社会から人間を切り離すツールとして認識されることが多い。

もちろんその為に哲学をする訳ではないが、古き人から現在まで哲学者はあらゆる理論を駆使して思想を展開してきた。 しかし世の中は変わらない。むしろ悪くなってゆく。

つまり”正しい事を言う”だけでは世の中に何の変革も起こすことが出来ない。

我々の世界は今その危機的な場面に直面している。

 

ここで重要なのが話を聞いてもらえるようにならなければならないという事だ。

国民に「お前ら馬鹿だ」「問題を放置してよくのうのうと暮らせるな」と上から目線で言うのははっきり言うが間違いである。

先ほど記したお笑い芸人は残念ながらこの枠に入ってしまっている。

〇〇に評価された、〇〇で何人集まってくれた。これははっきり言って無意味だ。

数百人単位でディバイドしても何も変わらないし、逆流性のような感じで不幸が生まれる危険性すらある。

正直言って自慰行為でしかない。

 

正しい事を言う事が間違いなのではなく、伝え方つまりコミュニケーションを取ろうと努力しない限り伝わらないのだ。

 

実存 他人 人生

 

 

いくら社会がクソであろうと政治家が強欲な支配者だろうと検察に順法精神が無かろうとその社会で生きているのが私たちである。

個人はその社会で生き、背負う物を受け入れ人生を全うする。

正しさを求めるという事は同時にその多くの人間の人生を破壊してしまう行為になり兼ねない。

よくサラリーマンで「こいつよくこんな所に40年もいれるな」みたいな勘違い強弁をする若者が多いが、彼らは背負っている物があり個人の選択の範囲でその会社に勤めているのだろう。それを簡単に碌な根拠も無く批判するのは馬鹿だ。

 

理想の社会は正義をより包摂してくれるだろう

しかし私たちは諦めなければならないラインを引くことを呪いを受けているかのように求められる。

即効性の媚薬など有り得ず、完璧な処方箋など出しようがないのが人間の社会だ。

 

僕たちが生きている社会 あるべき社会

 

 

夢の国を生きているという感覚は忘れないようにしたい。

並行世界的に言えば、今の世界は”ありえるようにした世界”だ。

現代は言葉の力より享楽の甘い誘いに皆が陶酔している。

そこで求められるのは哲学のハードパンチャーか、もしくはテクノロジーか。

自分とその周りさえ良ければいい、損するならやりたくない。得している奴はずるい。

そんな暗雲が世界を包み込もうとしているイメージが今日も頭を離れない。

埋め合わせをしてただひたすら消費し続けるという事を私たちは望んでいないはずなのだが・・・・・

 

沖縄でまたも落下物 

またも米軍飛行機体からの落下物による事件が起きた。

幸いケガ人は無かったが、ifを考えるのであればただ事ではないだろう。

今年の10月のヘリの不時着、そして保育施設への落下物。

そしてまた、起きた。

 

普天間にあるから危ないという問題意識について

 

 

先日書いた沖縄についての記事でも記したが、沖縄の問題は沖縄の問題ではなく日本という国家の問題であるという前提を持つという事は非常に重要である。

 

普天間周辺には民家や学童施設などが並び、とてもではないが基地施設がある場所としては適切ではない。

この理由から辺野古への移設をまるで正論かのように語るコメンテーターやツイッター上の一般人は話すが、全くもって解決策にはなり得ない。

 

先ほどもコメンテーターが事実の認識をしっかりして国が先導して移設を進めていかなければならない。と言っていたがメディアでは所詮この扱いである。

 

米軍基地の維持費に対する税金の問題や歴史的、国家の現状についてのリテラシーが余りにも不足していると言わざるを得ない。

 

この国に生きる国民として、私たちの国は”敗戦””占領”され果てには基地を沖縄に”押し付けている”という認識を共有しない限りは、沖縄側のある種の正義を持った人間も動けず、本土側の歴史的な事実に裏付けられた国家としての在り方、主権を重視する人間も手を出せない。

 

対米自立か対米従属か ルネサンスは可能なのか

 

 

結局は沖縄の問題も経済の問題も原発の問題も政治の問題も全てはアメリカと繋がっているという事実に対して何も思えない・・・思わない。

これは戦後ずっと続いていて、日本は変われないという事が最近はもはや悪くなっているというのがスタンダードなものになりつつある。

 

北朝鮮情勢や中国韓国を始めとするアジア全体の情勢について多くの国民が不安に思っている。

そこに強いスーパーマンのようなアメリカが”助けるよ”と言えば正直に言ってイチコロだろう。

 

日本人が進路を決め、世界に属していくのであれば対米従属をこれ以上エスカレートさせるのは辞め、自立に向けてコツコツと外交努力をしていくべきである。

そうしなければ沖縄問題は解決しない。

国家すら従属しているのだから、時と共になど有り得ない。

 

中国は今や強大な国家になりつつあるが、この現象はアメリカの覇権の没落と共にタイマーがチッチと音を立てはじめたようなものだ。

それに対して「アメリカがついていれば他の国は悪い事言えないだろう」と腰巾着が如くの発言をしている首相にこの国を任せるというのは無理がある。

 

アメリカは世界の警察をやめますよ。という名のもと誕生したトランプ政権。

アメリカとより強固な日米同盟を築き上げると言い続ける安倍政権。

 

この異様な世界で日本国沖縄は苦しみ続ける。

私たちは敗戦という認識を捨てた夢の国を生きている。

 

新しい対立概念を希求する

政治的、イデオロギー的な対立が保守・革新という言葉からリベラル・保守という言葉に変わり今ではリベラル保守という言葉や〇〇的リベラル、〇〇的保守という言葉が生まれている。

しかし現在はヨーロッパ的な保守リベラルという概念とアメリカのそれらの概念は全く違う意味を持っており、日本も例外ではない。

混乱が生じると共に「私はリベラルです」「私は保守です」と誤用され始めもはや対立したいが為の言葉への感情移入になっていないだろうか。

 

時には革新として駒を進める事を希求する。

時には保守的に後戻りできるような”革新”を希求する。

人々の寛容な話し合いを求める。

 

というような単純な図式ではもはや合意形成は為されない。

リベラルと保守は対立する概念ではないなどの説明ではもはやこの世界のスピードには付いていけない。

可能か不可能か、現実的かユートピアかという点などから新しい”消極的な対立”をする為の概念を枠組みから脱するという形で求めていこう。

 

与えられるべき自由 と 求められるべき自由

 

自由である。という事を完全に証明しようとするならそれは生を失う事でしか答えを得る事が出来ない。もしくは明晰夢のようなものだろうか。

少なくとも個人は社会に属し国家に属し世界に属す私人であり、そこには他個人つまり他人の私への介入や私の他人への介入を許容し合う以外に存在する事が出来ない。

 

個人が社会に自由を求める  世界が国家に自由を求める

社会が国家に自由を求める  国家が社会に自由を求める

国家が世界に自由を求める  社会が個人に自由を求める

 

このパラドクスから抜け出す事はこの世界では不可能だろう。

与えられるべき自由という理念では何も解決する事が出来ない。

 

【世界ー個人的】な求められる自由を説明するとなると啓蒙的な理念ばかりが頭に浮かび、現実に対しての虚無感が増すばかりである。

簡単に言えば世界が国家に自由を与え・・・としていく時に最初の段階で私たちは躓いてしまうからだ。

絶望的という一言で示すのは不甲斐ないがカルテも無ければ処方箋すら書き出せない。

 

平和について語る時に「こうなれば良いよね」といった具合で始まった議論が「いやでもそれを成立させる条件がまず無いよね?」「成立し得る世界とは何か?」と不可避的なニヒリズムに陥る。

 

対立概念β

 

・巻き戻す事を理念として先に進むという理念

 

・先に進みながら問題を解決する事を求める理念

 

この二つを見た時にイメージする事は何だろうか。

 

【A氏(前者派)】

前者は”明らかに間違っていた”事を正し、過去が現在に与えた影響を未来の為に正すという考え方であり”そのままにしておこう”的な物を排除する事によってよりよい議論や合意形成が出来る。

崖から落ちるまで巻き戻しによるコストに怯えているのはもうやめよう。

 

後者のように過去には戻れないという盾を作り、そのままにしてなんとか突然変異を待つ、むしろ塗り替えようとする世界に未来はあるだろうか。

 

【B氏(後者派)】

テクノロジーや現実的な面から後戻りという意見には賛同し難い。

完全に正しい事は求める事が出来ないし間違いを正す事は進みながらでも出来る。寛容に意見を交換する事を望むが何かを止めようという決定をした時にDevolution(退化)する事を私たちは望まない。

 

2017.12.9(sat)

 

実存と触れる事の出来ない未来について

実存

 

自分の存在というものは何よりも尊く、何者よりも愛したい存在である。

人間はモノのように本質が先に発生するものではなく、実存が先に来るあまり様々なパラドックスに陥り、苦しみ悩む。

 

人生を生きるという本質を追いたいというロマンチシズムを廃棄し、自分や世界という実存によって定義・制限される事を私たちは受け入れられるだろうか?

 

 

自分の人生とは何か。

これは世代によっても異なり、ありとあらゆる歴史的な年代によっても異なる。

私たちがどういった時代に生きているのかという認識つまり時間的な感覚を今の時代に生きる者達が得うる事は可能なのか?

 

 

未規定である未来に対して

 

 

将来と未来を少し分けて考える。

 

自分の将来とはある程度想像ができ、自分という者はあらゆる偶然に曝され時には能動的になり時には受動的になり変わっていくものである。

 

それに対して未来とは全くの未規定であり触れられない

つまり自分の死後である。

死後も世界というものを考えなければならないのか?という疑問に関しては

親族や友人、ペットが死んだ時にも私たちは今もこの世界に生きているのである。という説明で事足りるであろう。

死後という物を未来に置き換えるのは全く綺麗な事ではないが、今現在規定されている自分の生が死ぬという事は、生の死=未規定な未来へのファーストコンタクトと言ってもいいかもしれない。

 

時間的な感覚で説明するのであれば昨日の自分という物は既に死であるが、今日の自分には生が与えられており、しかも昨日・昨日以前の記憶や感覚について覚えているという事からもイメージが出来るだろう。

 

 現在を消費し続ける怪物

 

・震災

 

 

様々な外交や経済政策、一部企業の態度は果たして未来を見据えているのか

東日本大震災原発行政の粗が闇に光を当てる手法で露わになった。

各党が脱原発を掲げているが一度始めてしまったが為の現実的な問題があり、そう簡単に危ないのでやめましょうとはならない状況は充分に理解が出来る。

この点は民主党政権時代のあの異様な空気からも感じられる事である。

 

行政側と専門家の意見交換会などを見ていると思うが彼ら(前者)には

 

「自分達が生きている間に何も起きなければ良い」というイメージを持たせられる。

現に地殻変動機に入っているのにも関わらず、再稼働を容認する為の行動を起こしている事は理解し難い。

 

地震津波、台風などの自然災害は無慈悲でありコントロールが効かない。

しかし上記のような自然災害が起きて事故を起こす可能性があると分かっていて始めた政策であるという事が明らかになった以上、これは人災と言わざるをえないのだ。

 

原発推進をしている人たちのリアリスト的なロジックは多少なりとも理解しよう。

しかし次に災厄”Disaster”がやってきた時に誰がどう説明を行うのだろうか。

「なんであの時辞めようってならなかったの?」と未来に生きる者達から問いかけられた時、真っ当な説明など出来るはずがない。

 

リスクが生じる以上、後戻りについて考えないのは愚弄である。 

非難方法を周知させ、いかに身を守るかという物を徹底したとしても原発というモンスターはあまりにも強すぎる。

 

・経済政策

 

経済政策についても上記のような未来に対しての眼差しが無い。

現在の日本の雇用・経済資本を含めた経済政策は一言で言えば

「リスクを無視したパワープレイ」である。

 

 

経済はグローバル経済の性質上、国外の影響を物凄く受ける。

つまり持続可能性については未規定であり、次々とやってくる困難や発展の芽を見つける事をしながらやってかなければならない。

そして困難が起きた時の場合のリスクを考えておくというのが普通だ。

成功するか失敗するかは、経済策というやってみなければ分からない”机上の作戦会議”という点を考えれば即時に判断する事は出来ないだろう。

しかし現在も推し進めている日本の経済政策は巨大なリスクを無視して”良い事だけを言う” ”とにかくすぐに数字を上げる”という点に固執している。

 

ここでは多くを説明するのは難しい為、別の記事で紹介したい。

 

過去現在と未来

 

 

現時点で誰も分からない事は誰一人として語る事が出来ない。

せめても未来に対しての負債やリスクについて考える姿勢を権力側が示すのは当然の事ではないだろうか?

私たちは人間的な実存を考えると共に過去ー現在ー未来という枠組みを共通認識として持てる社会というのは有り得るのだろうか。

「もう何も考えなくていいよ。こうしてればいいよ。」という悪魔の囁きに反旗を翻す夢を見て眠り続けるしか今は出来ない。

 

序・米軍基地問題

沖縄で数十年も問題として残っている米軍基地問題

 第二次世界大戦で1945米軍上陸をきっかけに沖縄は焦土と化した。

文化財の破壊や一般市民の20万人にものぼる甚大な犠牲を払った。

この時日本は沖縄で長期に渡り抵抗を続け、本土上陸への時間を稼ぐという選択をしている。 言うまでもないが犠牲になったのは兵士だけではない。

米軍はこれを機に当時悪化していた朝鮮半島や中国の発生などの為に沖縄を完全に軍事用の拠点として認識し、無償で土地を使用していた。

 

そしてその傷跡が現在2017年になっても残っていて様々な問題と密接に関わってしまっている。

 

米国は沖縄を守ってくれるのか? 

基地に対する日本側からの助成金は一体?

そして新しく米軍基地が建設・移転される事によって自分たちにふりかかってくるコストを無視していないか?

 

ただ基地があるのはおかしいよねという話ではなく、社会で生活している私たちの根本に存在する"僕たち"と"誰か"という二項からこの問題を切り開いていきたい。

 

 沖縄は”私たち”である

 

ワイドショーのニュースや新聞で掲載されるヘリ墜落事件や婦女暴行事件などで沖縄に潜む問題を知るきっかけを得る事がある。

しかしそれは氷山の一角であり、沖縄で放送されているニュースは本土で流れていないようなものも多く流されているのだ。

 

学校の敷地内にヘリが墜落した時は注目を集めた事もあったが、それは時間とともに「そういう事もあったね」という事で流されてしまい、何故どうしてそのような事が起こったのか?そもそもこのような事が起こる根本的な次元での問題とは何なのか?という事には多くの時間が割かれずそのままになってしまっている。

 

婦女暴行に関しても本土で起こるような暴行事件とは何かが違うという認識がない。

兵士が居なければ無くなるという事は無いが、根の問題として捉えるべきだ。

このような問題に対して日本側から米国に強く言うという事を全くしない現状からして政府の見識は”沖縄は未だ占領下にある”というものであると言えよう。

そしてその政府を壊れた民主主義で支えているのは言うまでもなく私たちである。

 

現首相は「沖縄の米軍基地は、米軍が安全に現地の法を侵す事なく使ってもらうという事が大前提であります」などと言っているが、現状とのギャップを埋めるような行動は無い。

これらの事件が本土で起こっていた場合のリアクションを考えると”私たち”と”彼ら”の問題が浮上してくるだろうと想像出来るが、もはや全てが対岸の事故として認識されてしまうような気がしてならない。

 

 

売春宿

 

言論人が沖縄には売春宿が多いという話をしていたが、この事情も日本側が性の現地調達という戦争的な理論から米軍に頼んだ為にそうなったという話だ。

 

性の現地調達とは戦争で戦地に兵士が行くと弾薬や食料などはストックに限界があるため現地で略奪をする事になる。

そして性という観点からも女性の人間性の略奪が起こり病気も蔓延してしまう事から第一次大戦辺りで所謂”売春婦”という制度をもってあまりにも非人道的な行為はやめましょうと取り決めをしたのだ。

 

沖縄に売春宿が多いという事もこのロジックであり

男社会の病理、女性差別である。

 

 

基地は日本側が”置いてもらっている”のか米国側が”置いている”のか

 

米軍が基地を置いているのは日本が置いてもらっているというものと、占領という形で始まった置かせてもらっているという二つの論理が交錯している。

 

日本が置いてもらっているという話はアジア情勢に対して米軍に守ってもらおうという日米の安全保障からなる理論である。

現在は北朝鮮情勢や中国の一言で言えば怪しい状況によってアメリカに守ってもらおうという意識が強く、メディアなどでもほとんど問題提起がされていない。

 

米国側からすれば沖縄は明らかに戦争によって占領した土地である

返還協定の時の話を少ししておくと

返還にはA・B・C表とあり

 

Aは「返還されない基地」

Bは「時期を見て返還される基地」

Cは「即時に返還される基地」    

                  である。

 

1972年(昭和47年)に沖縄が本土に返還されて以降返還されたのはわずか18.7%であり、本土と沖縄を含めた全体の74.3%の基地が沖縄に集中している。

 

専用施設と一時的使用施設

日本にある米軍基地には二種類ある。

 

専用施設:米軍専用の基地施設

一時使用施設:日本の自衛隊基地などを米軍が一時的に使用する施設

 

本土の米軍が使用する施設はほとんどが一時的使用施設である一方で沖縄にある米軍基地はほとんどが専用施設である。

 

・沖縄の米軍基地の専用施設の割合:沖縄の基地面積の98.4%

・本土の米軍専用施設の割合:本土の基地面積の10.1%

 

個別的自衛権集団的自衛権

数年前に集団的自衛権の行使について政府が予算委員会である答弁をした。

それはもし外国船や外国に日本人が居て戦争に巻き込まれた場合、集団的自衛権を行使し他国の援助を行う旨の話だった。

 

当時から憲法学者や専門家が「それは個別的自衛権の枠の中の話ではないですか?」と質問などをしていたがその通りなのである。

 

もし自分たちの国で戦争が起きて外国人が居た場合「助けなくていいよね」なんて事になる国は無いだろう。

 

沖縄が中国に攻め込まれるなどといった話から自民党が薦める集団的自衛権を擁護する人も居るがそれは全くの間違いであり、それは有事において日本が沖縄を個別的自衛権で守るという事だけの話だ。

 

集団的自衛権を行使しアメリカが他の国に攻撃しエスカレートし戦争になった場合日本側はアメリカの要請を断れず、戦争に巻き込まれる事になる。

 

それはつまり日本がある国から”敵である”というハンコを押される事になるという事だ。

 

1945-2017 対米従属

沖縄の問題は今も癒えていない

癒えていない所か中央政府はその問題を見ず、ひたすら対米従属の道を歩もうとしている。

日本の事は日本で決め、国家の安全は日本国の主権によって守るべきだ。

敗戦国であるという事を敗戦国では無いと思いたい人達に主導権を渡してはならないと思う。

 

哲学は諦めへのダストシュートなのか

哲学という学問に触れて早数年

 

もともと中学生ぐらいの時から物事の筋であったり何故何々はこのようになっているのか、なったのだろうかなど想像をする事が好きで一人で何も喋って居なくても頭の中で想像・妄想を膨らませ自分の人格の他に対なる二人目、第三者を呼び出しアレコレ考えていた。

 

想像・妄想というのは時に物凄い精神的疲労として襲い掛かってくる事がある。

 

例えばそろそろ眠ろうか・・・という時に

自分「Aの問題を解決する為の策は無いだろうか」

自分´「ん~君の意見は素晴らしいと思うけどやはり現実的な意味を含まないように思うね」

自分「やはり理想と現実の折り合わせというのは難しいですね・・・」

 

そして恋愛観について考えている時は頭の中で対話をする人物を想像しアレコレ話をしてどのような反応をするだろうか? 相手は心を開いてくれるだろうか?

 

社会問題に関して考えている時はリアリストの時の流れ的スピード感をどのように減速させる事ができるだろうか?果たして自分の意見と折り合いがつく事はあるのだろうか?

 

このような想像は帰結が全くの未規定であり、眠りに落ちるまで延々と続く。

もちろん肉体的に疲れている時はこんな事は考えず卑猥な妄想や将来の展望について考え適当にハッピーになる事もする。

 

哲学をするとはどのような事か?

 

哲学とは「この人考えすぎなのでは・・・」「こじつけ臭いな」という印象を乗り越える事から始めなければならない。

そして「この本に書かれている事は私がこの本を読む前から感覚的に自分の中に存在していた!」と一種の反省を踏まえた幸福感に浸る事である。

 

 

哲学の一つの側面は”言葉”にする為にツール的な”道具”として使う物。

 

もう一つは”問題””修復”し新しいイメージを”創造”する活動であると思う。

 

幾度となくアップデートされてきた”道徳” ”倫理” ”正義” ”国家”という言葉はやはりまだ出番を与えられていない。

それどころか言葉として形骸化していたりさえする。

何もかもが 

      【様々である】 

             So what?

                   【しょうがない】

                          【そういう事もあったね】

とダストシュートに投げ込まれ地下深くに集積している。

 

徹底的な経験論や学術的な論理で構築された文章もクライマックスでいきなり”神”が出て来たりする映画的に言えば”大どんでん返し”も存在する。

超越的なものはイメージの表層から地上に出る事を嫌うはずなのであるが。

 

科学 対 哲学の二項対立

 

科学がもたらす発展から逃れられなくなった世界で、人間という存在の感情や意味を復活させようと奮起した哲学者は後世の為に様々なアイデアを残していったがやはり哲学が勝てないのは”スピード感”である。

人が何を思わずとも今の世界は情報や科学によってある意味支配されているとも言え

ビッグデータやあらゆるコンサルティングが絡むパターナリズムの支配によって主体が”選択”という”選択”から剥奪されてしまうのであろうかという勢いだ。

 

科学の発展は人類の住みかをより発展させ、幸福を幾度となく産み出してきた。

しかし近年ではそれによりあらゆる面で人びとは分断され、急激な発展により生じた格差やそれに対する憎悪が世界を覆っている。

 

本当に大切な事は地中でいつか必要になるその時を待っているようにも思える。

 

本当に大切な事? 

それは君の眼前に無いのか? だとすれば君は不幸であると言えるね。 と。

 

哲学が諦めの感覚に与えるテーゼ

 

倫理や道徳を説いた書籍には感情を回復させる為の文字が並んでいて、それはイメージとして自分の中に入り込み反省が行われたり回復が起こる。

感覚や知、人について考察を試みている書籍には方法や論理、物事の電子回路的な図面を理解し、言わば様々なシステムについて熟考させられる。

 

このような事は身体で理解し、心で理解し一瞬でも現実に今生きている私たちに押されている烙印(スティグマ)から逃れられるのではないかと感激する。

 

しかし現実はどうだろうか

あらゆる哲学や道徳倫理で説かれてきた事は全くといっていい程相手にされず

享楽といっていいぐらいの自己中心的な物が市民のレベルで渦を巻き、権威はそれを見て時間感覚を失い、果てにはマキャベリズムに足を突っ込んでいる。

 

社会学者や市民の事を第一に考えて物を言う人間は”諦め”を持ってしまっている。

諦めてしまったら我々は彼らに力づくでダストシュートに放り込まれる。

そしてその時代に発生する人文知や知見は全て科学による急速なアップデートでまた地下へ沈むのだろう。

 

現実を肯定して生きるのはとても楽だ。

特にこの国はあらゆる事象を認識せずとも肌感覚でトラブルを感じる事は少ない。

それ故に苦悩を抱えている仲間が見えず。見ようとも思わないのかもしれない。

それは優しさや道徳感情を失った訳ではない。剥奪されているのである。

 

いつかダストシュートを通って奇しくもヘドロの沼に呑み込まれてしまった私たちの祖先が残した子供を救い上げ、地上の光を見せる事が出来るであろうか。

 

地上の光を美しく輝きに満ちた光として残していかなければならない。

それによって照らされる私たちの言葉はとても美しいはずである。