地下聖堂

Nihilism fall the underground

【社会】良い社会とは何か?

社会問題や社会学の視点から見る今の日本社会というのはとてもではないが”良い社会”とは言えない。

 

良い社会というのをどう定義するのかという問題もあるが

個人がどう他人と共感を得るか、見ず知らずの人間を大切に思えるか。

これが波紋上に連鎖していかない限り、これだけ大人数が定住している社会で良い社会を営むという事は不可能なような事に思える。

 

【個人がどう他人と共感を得るか・見ず知らずの人とは何か】

 

前者は自分と何らかの関係を持っている人間

ex.家族 友人 会社の同僚 ご近所さん

 

後者は街を歩いている"知らない人"や地理的な条件で全く関係を持たない人

 

※後者の場合は共感という点ではどうもし難い問題があり、なんとなく想像をしたり第三者の視点から事象を眺める事しか出来ない。

 

簡単に言えば前者が”われわれ”であり、後者は”かれ”である。

 

・後者の共感可能性を考える Sympathy 想像の限界性

しかし後者の共感可能性に対する※ジレンマはこう言う事も出来ないだろうか

 

人間は自分という主体を持ち、他人の内なる感情<喜び・悲しみ・怒り>を様々なコミュニケーションや想像で感じる生物である。

 

つまり側で転んだ人が居れば「大丈夫ですか?」と声をかけ、喜びに満ち溢れた表情をしている人が居れば「良かったですね!」と声をかける生物である。

 

上記のような事は自分の眼前つまり五感、肌感覚として情報を得て何らかの感情が発生するパターンである為容易に想像が出来る。

 

 

これを例えば、ある国である地域が紛争に巻き込まれたり貧困に苦しんだりしているが、その一方で都市は発展し先進的な生活を送っているなどという事を想像してみよう。

 

この場合自分が前者であると想像した場合、貧窮な生活を強いられ環境的にも自分の理想を諦めたり、周りを見渡しても希望という物が見えずなんとなくそのグループに居る事しか出来ないなど、諦めの先を見てしまったが為に暗がりに身を置いているというイメージが出来る。

 

後者であると想像した場合はどうであろうか

朝起きれば嫌だなと思いながらも会社に行き、同僚と新製品のプランや営業先へのアポイントメントなどをまとめたりして退社時間を迎え仲の良い友人とお酒を飲み交わす。

休日には恋人と出かけたり、ショッピングで興奮をしたりする。

何となく嫌な事もあるけど幸せだなと思うであろう。

 

この時ふと前者のような地域がある事を知り人は何を思うだろうか。

 

「あぁ。可哀そうだな。政府は何かしないのかな」

「何かしてあげたいけど私には自分の生活があるし・・・」

 

中には「その人たちはその場所に生まれてしまったんだからそれは運命だよ」というようなリバタリアン的な人も居るだろう。

 

この話でいうリバタリアンの意味は「自分は彼らに何もしないよ。でも彼らは彼らで頑張ってね」といった意味になるだろうか。

 

この時彼らがこのままで良い訳がないし、助けてあるべきだよと思うのが良き事ではあるがそれは理想主義になってしまい時にはメサイアコンプレックスにも転じてしまう。

 

 

・個人の責任について

少なくともこのようなケースで救済を個人の責任として化すのは身が重すぎる。

このような議論をアップデートさせるには個人の感情をその個人が生きる社会の感情にうまくスライドさせていかないといけない。

 

社会というのは勿論権威的なものが社会を作り上げている側面もある。

しかしその人が気づいていない、思ってないとしても個人の感情や感覚が波紋上に広がり社会の”空気”のようなものを作り出しているのは事実だ。

 

この状況を打破するべく送り込まれるワードは恐らく”優しさ”であったり”道徳・倫理”という言葉だろう。

 

この言葉は当然昔から道徳・倫理哲学や社会学で使われてきて物凄い長い時間議論されてきている。

 

しかし直近のサンデルブームで”正義”という言葉が議題に上がった時に、ロールズが言っていた世界市民主義は皆が皆を大切に思い権威が市民に平等に資本を与える事によって成立するというような超道徳的な理想が簡単に論破されてしまった事は記憶に新しい。

 

つまり国と国を”われわれ””かれ”と分けてしまっている時点でその理想は不可能であり、”われわれ”ってどこまでを言うの?というような話である。

 

これを国民国家に落とし込んでみても結果は変わらないだろう。

 

更に言えば民主主義の観点からしてもルソーが社会契約論でこのような超理想的な国家が成り立つ事は不可能であると断言している。

世紀を越えた我々の諦めのバイブルである。

 

ネーションステートとはとてもではないが言えないこの日本で社会を個人の共感し合いたいという感情が波紋上に広がり良い社会を作り上げる事は出来るのだろうか。

 

いつか見たアニメで聞いた「私あなたの事もっと知りたい」といって死んでいったヒロインのセリフを思い出すが、物凄いヒントになる気がしている。

 

あとがき

あらゆる場面で崇高で美しいはずの道徳や倫理をユートピアだの理想だの現実だのと説かなければならないこの世界とは一体何であろうかと思わざるを得ない。

 

現実というものが私たちの実存の為に正当化されてしまい過去の教訓や未来への産物に対して無関心になってしまうのはただひたすら心苦しいのである。

地下聖堂プロジェクトについて

・流れに身を任せ生きるのであれば考えなくても良い事を考える時間を創る空間

 

・ずさんな意思決定の結果今現在も起きている事を決して”しょうがないね”で済ませない

 

・若い世代による社会という空間を熟議する時間

 

現在の社会に生き辛さを感じる要因としては我々の世代は勿論の事、多くの世代の共通認識として”経済的”な問題が多くを占めていると思われる。

しかしそこにだけ視点を置くのは間違いであり、それは【過去ー現在ー未来】という時代観をどう考えるかという所に問題は集約されると思う。

 

・過去行われてきた事が”正しかったのか”

・・その過去によって形成された現在は”正しい選択をしているのか”

・・・そして現在を生きる者により創られる未来は”正しい物になる”と言えるのか。

 

〇なぜ地下聖堂という名前のプロジェクトになっているのか

いつか言論空間を作りたいなと思っていましたが、私は一般人であり全くキャラクター的な知名度や既にあるイメージというものが無い為、地上に店舗を作ってもただのカフェになってしまうだろうなという所や、現実的に経営していかなければならない事を考えてから「だったら地下に聖堂っぽい所を作って唯一無二な価値を提供できる場所を作ろう」という所からきています。

 

 

〇正しさへの希求と現実的な思考の折り合わせ

何故地下に作るかというと、普段する何気ない友人との会話や偶にある議論はとても有意義な物ではありつつも自分の本当に言いたい事や、自分が本当に正しい事を言える機会が少ないと感じています。

「言ってる事は凄く正しいと思うけど現実はさぁ・・・」というのがそれです。

言ってる事が正しいと思うという事は、それに反して存在するこの【現実】という物は一体何者なのでしょうか。そしてそれをそのままに肯定してしまった結果は悲劇的な事象を生み出しているのではないか?

 

〇ある一種のロールプレイング

そこで地下聖堂ではまるで自分が反社会的革命グループの教徒になったような気持ちになり議論をしていく空間という場所を現代に作ろうと思っています。

もちろんアナーキズムに傾倒する訳でもないし、今まで世界で行われてきた革命的な行動を汲んで推し進める訳ではないし、社会のヒエラルキーにおける個々人の位置や、我々の世代が損をするから得しようじゃないかなどの浅ましい論壇を組む事も決してありません。

”何者かも分からない現実”に曝されず、自分という人間が主体的に本心から思える発言をする事が出来る場所というものに価値を与えたいという次第です。

 

”抗う”という事から本当に正しい価値を見つけたい。

 

簡単ではありますが後々アップデートを重ねていきたいと思う所存です。