地下聖堂

Nihilism fall the underground

哲学は諦めへのダストシュートなのか

哲学という学問に触れて早数年

 

もともと中学生ぐらいの時から物事の筋であったり何故何々はこのようになっているのか、なったのだろうかなど想像をする事が好きで一人で何も喋って居なくても頭の中で想像・妄想を膨らませ自分の人格の他に対なる二人目、第三者を呼び出しアレコレ考えていた。

 

想像・妄想というのは時に物凄い精神的疲労として襲い掛かってくる事がある。

 

例えばそろそろ眠ろうか・・・という時に

自分「Aの問題を解決する為の策は無いだろうか」

自分´「ん~君の意見は素晴らしいと思うけどやはり現実的な意味を含まないように思うね」

自分「やはり理想と現実の折り合わせというのは難しいですね・・・」

 

そして恋愛観について考えている時は頭の中で対話をする人物を想像しアレコレ話をしてどのような反応をするだろうか? 相手は心を開いてくれるだろうか?

 

社会問題に関して考えている時はリアリストの時の流れ的スピード感をどのように減速させる事ができるだろうか?果たして自分の意見と折り合いがつく事はあるのだろうか?

 

このような想像は帰結が全くの未規定であり、眠りに落ちるまで延々と続く。

もちろん肉体的に疲れている時はこんな事は考えず卑猥な妄想や将来の展望について考え適当にハッピーになる事もする。

 

哲学をするとはどのような事か?

 

哲学とは「この人考えすぎなのでは・・・」「こじつけ臭いな」という印象を乗り越える事から始めなければならない。

そして「この本に書かれている事は私がこの本を読む前から感覚的に自分の中に存在していた!」と一種の反省を踏まえた幸福感に浸る事である。

 

 

哲学の一つの側面は”言葉”にする為にツール的な”道具”として使う物。

 

もう一つは”問題””修復”し新しいイメージを”創造”する活動であると思う。

 

幾度となくアップデートされてきた”道徳” ”倫理” ”正義” ”国家”という言葉はやはりまだ出番を与えられていない。

それどころか言葉として形骸化していたりさえする。

何もかもが 

      【様々である】 

             So what?

                   【しょうがない】

                          【そういう事もあったね】

とダストシュートに投げ込まれ地下深くに集積している。

 

徹底的な経験論や学術的な論理で構築された文章もクライマックスでいきなり”神”が出て来たりする映画的に言えば”大どんでん返し”も存在する。

超越的なものはイメージの表層から地上に出る事を嫌うはずなのであるが。

 

科学 対 哲学の二項対立

 

科学がもたらす発展から逃れられなくなった世界で、人間という存在の感情や意味を復活させようと奮起した哲学者は後世の為に様々なアイデアを残していったがやはり哲学が勝てないのは”スピード感”である。

人が何を思わずとも今の世界は情報や科学によってある意味支配されているとも言え

ビッグデータやあらゆるコンサルティングが絡むパターナリズムの支配によって主体が”選択”という”選択”から剥奪されてしまうのであろうかという勢いだ。

 

科学の発展は人類の住みかをより発展させ、幸福を幾度となく産み出してきた。

しかし近年ではそれによりあらゆる面で人びとは分断され、急激な発展により生じた格差やそれに対する憎悪が世界を覆っている。

 

本当に大切な事は地中でいつか必要になるその時を待っているようにも思える。

 

本当に大切な事? 

それは君の眼前に無いのか? だとすれば君は不幸であると言えるね。 と。

 

哲学が諦めの感覚に与えるテーゼ

 

倫理や道徳を説いた書籍には感情を回復させる為の文字が並んでいて、それはイメージとして自分の中に入り込み反省が行われたり回復が起こる。

感覚や知、人について考察を試みている書籍には方法や論理、物事の電子回路的な図面を理解し、言わば様々なシステムについて熟考させられる。

 

このような事は身体で理解し、心で理解し一瞬でも現実に今生きている私たちに押されている烙印(スティグマ)から逃れられるのではないかと感激する。

 

しかし現実はどうだろうか

あらゆる哲学や道徳倫理で説かれてきた事は全くといっていい程相手にされず

享楽といっていいぐらいの自己中心的な物が市民のレベルで渦を巻き、権威はそれを見て時間感覚を失い、果てにはマキャベリズムに足を突っ込んでいる。

 

社会学者や市民の事を第一に考えて物を言う人間は”諦め”を持ってしまっている。

諦めてしまったら我々は彼らに力づくでダストシュートに放り込まれる。

そしてその時代に発生する人文知や知見は全て科学による急速なアップデートでまた地下へ沈むのだろう。

 

現実を肯定して生きるのはとても楽だ。

特にこの国はあらゆる事象を認識せずとも肌感覚でトラブルを感じる事は少ない。

それ故に苦悩を抱えている仲間が見えず。見ようとも思わないのかもしれない。

それは優しさや道徳感情を失った訳ではない。剥奪されているのである。

 

いつかダストシュートを通って奇しくもヘドロの沼に呑み込まれてしまった私たちの祖先が残した子供を救い上げ、地上の光を見せる事が出来るであろうか。

 

地上の光を美しく輝きに満ちた光として残していかなければならない。

それによって照らされる私たちの言葉はとても美しいはずである。