地下聖堂

Nihilism fall the underground

公共とか普遍とか常識とか

最近は何かを批判するような時によく公共性や常識というものを武器にしている人が多い。

そもそも公共の概念を考えてみれば、私たちが人間であるという事から何かもっとヴァーチャルな妄想的な物なのだなと察せずにはいられない。

公的な資金を使ってやるのだからとか、公共の場でやるのだからと言う前にそもそも公共という物を理解出来ているのか確かめる必要があるのではないか。

公共とは一言で言えば何か間にある空間への歩み寄りであり、一方的な意見はルールに反する。

私たちはその私的空間と私的空間の間にある空間を「妄想」し、そこで論戦のゲームをするのが好ましい。

 

つまり、何もかも無にはならないように、どの意見もどちらかが完全に正しいということはあり得ないのである。

人間は疲れるというような話

人間は疲れる

 

私たちにはいわゆる体力といったようなメタなステータスがある。

しかし日々それを意識出来るかのはなんとなく疲れたなぁとか調子悪いなぁといった曖昧な認識である。

人は疲れる。そんな当たり前の事が社会ではあまり意識されてないように感じる。

我々が社会に対して感じる不寛容さはそういった事から生じているのかもしれない。

 

しかし疲れているからといって会社を休めばその会社は回らず、社会も回らない。

言葉を変えてみれば私たちは日々*無理*をしている。

まず思いつくのが私たちが毎日当たり前のようにしている「起床」である。

私たちは無理をして起きている。

人は決まった時間に起きられるような構造になっていない。

トリガーとして思いつくのが、何か楽しみな用事があるとか、お腹が空いたとか、散歩したいなとかそういった事である。

無理をして就業時間に間に合うように、登校時間に間に合うように起床している。

 

これは決して無理をするなとかそういった話ではなく、私も皆も確実に無理をしているとう認識を持つことから始めなければ、社会は寛容にならないし、私たちもそうなれないのである。

 

体力はかなり曖昧なもので、その人の体格や仕事ぶりや雰囲気から感じるイメージだけだ。

それを数値化出来たら面白いなと思う。

日々の思考/1

この間、スーパーマーケットに行った時にある棚からお菓子の袋が床に落ちた。

私はそれを6歩ほど移動して、しゃがみ、手に取り棚に戻した。 何故だろうか?

 

#単にそれは棚にあるべき物だという意識があるので、拾った。

 

#誰も触ってないのに落ちたのだから、他者に責任は無く、その現象を起こした振動あるいは物が目では分からない程ゆっくり動いているという現象に対して納得し、眼前に棚から落ち床に転がっている袋という物から不自然的を感じ取り、それを戻そうとした。

 

#誰も観ていない(監視者)がいないが、自我を監視する監視者的自我の命令により、自分が持っている経験や倫理からそのような行動を起こした。

 

#おそらくこの袋は私が戻さなかったらある人にはそのままにされ、ある人には拾われるだろう。

私は前者のような人がこの世界に多数存在することも知っているし、後者も然り。

ならば私はどちらになるのか?

私はどちらにもなれるのである。 それならば私は前者を選ぼうと意識をした。

後者に期待しつつその場を離れるというのも愉快な事であるようにも思えるが。

現代に妥協し続ける事について

様々な事柄について問題意識を持たずにはいられない、持たなければならないと思い生きるのは大変困難である。

 

例えば友人が借金で苦しんでいたり家族に災難があったりする事については私たちはごく自然に行動を起こせる。

 

しかしそれが深く関わりようの無い社会の話や世界の話になると私たちは悶々とした気持ちになる。  それは極めて退屈(動くに動けないが動きたくてしょうがない様子)であって、長い目で見据えようとしても日々考えた末に残るのは他人の実存への妥協と自我の意識のバッティングに悩まされてばかりだ。

 

このように毎日幾度となく近い記憶やスマホで見る記事から呼び起こされる問題意識との付き合い方、世界へ妥協し続けなくてはならないけど何か変えたいという欲望を自我の意識のどの場所で留めておくかについて考えたい。

 

まずは分かりやすい例から考えていきたい。

 

#私たちが日々思う権力や政治への意識

 

まず私は様々な事柄から現政権のあり方に疑問を持たずにはいられない。

質問に答える気のない官房長官、国家であぐらをかいている与党議員。

椅子に座り続ける事しか考えない人間。

将来へ金銭的にも資源的にも借金をし続け、皆不幸になるのだからと言わんばかりの経済政策。

 

こういった事柄は無垢な思考をするのであれば一言で片付く。「考えられない」と。

 

@なぜ考えられないことが世界では起きるのか

 

まず、この「考えられない」とは主観的であるようで、この意識を持つとき私は客観的に私と何者かの集まりを見ているところから出ている。

この思考法は物を考える時に大事なツールで、主観的、独断的な言説ではないのだと自分を一時納得させる事が出来る。

物を考えたり書く時に、自分のいま考えた事はいささか偽善的であったり独断的だと思ってしまい、そこで思考を諦めてしまう事が多々ある。それは単純に勿体無い。

その思考はいわゆる"過程"であり、結論ではない。というか結論など存在しない。

あえてその思考を捨て何者かになり、書く。という姿勢をそこで出現させるのだ。

 

@に戻ろう。

何故世の中でこんな「考えられない!」事が起きているのか、それを説明すると結果として結局他人の実存やその他人が作る社会構造の話になり、いきなり高い壁にぶつかる。

ここではもっと単純に思考を進めたい。

 

考えられない!とは批判的な意味を持つ。

アンビリーバブルではなく、どっちかと言うとスラングにあるブルシットに近い。

日々私たちは問題意識を持つ時にアメリカのヤンキーばりにボーシェッ!と心の中で叫ぶ。

 

考えられないとはそれに対しての拒否反応であり、知識がある無いには関係が無い。

さらには人それぞれの"優しさ"にも関係を持たない。

人それぞれに道徳感情と言うのか、物差しのような物があるだろうが、人のおおよそが道端で人が倒れていたら声をかけ助けるのであり、無視したりさらに痛めつけないと仮定しなければ私たちはこの意識を持つ事が出来なくなる。

 

ならば考えられない!をどう説明したらいいのだろうか。

それを説明できないのは私たちが他者に対して妥協をしたり実存を尊重しなければならないと無意識のうちに感じているからである。

 

酷い悪事を働いた者が居たとしても、それは私と同じ人間である誰かで、生活があり考え方がある。

そう思うと私たちはその者たちをボーシェ!と批判したくなると同時に何か憐れみに近い感情を抱く。

 

#考えられない!から妥協に逃げ込む習慣

 

私たちは日々考えられない…という感情に直面し、妥協を強いられる。

友人が苦しんでいたり家族に災難があれば私たちは妥協をしない。

しかし社会や世界に向けたその意識は私たちに妥協を強いる。

強いられるというよりは、諦めのシグナル(距離的、力学的、時間的、他者の尊厳への意識)が妥協しようという意思が無意識の間に一種の防衛反応として生じるのだ。

 

ならばその妥協をする自分を受け入れ、尚そこから先どうしたらいいのかを考える必要があるだろう。

 

次回へ。

無視

2月に行われた沖縄県住民投票

ハンストや様々な運動が行われ、関心が高まっていた中で私は虚しさを感じていた。

おそらく反対票が過半数をこえるだろうが、何も変わらない。そんな脱力感に襲われていた。

政府はその投票行動に法的な拘束力もなく、裁判には出来ないと投票日前に宣言していて、もはやここまで寄り添うというような言葉など嘘であると隠さずに居るのかと唖然としていた。

 

投票率は50%を超え、反対票は7割を超えた。

しかし連日の土砂投入は止まらず、埋め立て承認撤回もアップダウン丸出しに取り消された。

本土でも日に日に報道されなくなり、このままでは忘れ去られてしまうだろう。

 

民主主義の冒涜であるという論理はこの世界では通らない。

機能しない、するはずがないシステムの中で我々は問題を考えるべきではない。

 

単純に”民意が無視される”という事について考えなければならない。

 

*地政学的条件を語る者へ

 

近年ようやく話題になり始めた中国の経済が主な覇権への動きや、領土の問題からこの問題を語る人が居る。

地政学的条件的に沖縄は国防の要になるのだから沖縄には基地があるのが当然という意見である。

当然とはどういう事だろうか。

本土が押し付けてきた米軍基地を沖縄は受け入れろ。と言っているようなものだ。

基地があるということは当然脅威に晒される可能性が高い。

その危険性を我々は沖縄に担わせているのであり、それを肯定しているという事だ。

これは言うまでもなく暴力的であり、差別的である。

 

*であるならば、どうすればいいのか。

 

この問題は知れば知るほど根が深い。

サンゴやジュゴンの保護路線ではまるで歯が立たない問題である。

僕はこの問題に関しては対米追従への嫌悪や単純にカッコつきで日本を守る基地が沖縄に集中しているのはおかしいだろうという事から関心を高めている。

現政権を見れば明らかなのは、彼らはこのままアメリカについていき、アメリカに忖度して国内の政治を動かしていこうという路線を変える気は無いという事だ。

アメリカについていけば大丈夫。今のままならまぁいいかなという自分達が生きている間は安泰だろうという物に無条件に巻き込まれているのが現代の日本人だ。

 

という事は国内にあり得ないくらいの自律心がうまれなくてはならず、それは不可能に近い。

対米追従でも歯が立たない問題なのだ。

 

僕は単純にそれではこの国で日本人として生きる意味がないと思ってしまう。

この国で生きるのであれば言葉にはならない“理由”という物が欲しいと思うし、もしこの国が沈没するような事があっても他の国で生きればいいよねみたいな気持ちを持ってはいたくない。

これは自分がそうだから。ということでは無く、未規定ではあるがある程度予測が出来る未来についての思いでもある。

 

*ピティ 憐れみ

 

憐れみというのは日本語で言う哀れに思うという事ではなく、もっと純粋に僕たちが思う「ほっとけない」や「助けたい」「守りたい」と強く願う意思の事である。

 

この問題に関心を持てば、必ずやこの憐れみが生じるはずである。

が、前述した地政学的条件を語る者を含めた賛成派はそれを分かっているにもかかわらず、そうは言わない。

 

そうだけど、そうしたら損をするから。嫌だから。

私はこのような個人について思う事がある。

 

#人生を見通したつもりになっている。

彼らは自分の人生の向こう何十年が自分では分かっているというような誤解をしている。

それは自分が必ず損をしない、失敗しない事を選ぶだろうという勘違いからだ。

それは単に間違っている。

それはあらゆる偶然性や自分の行動がもたらす必然性から崩れていく。

このような人間は恒常性によってなんとか自我をささえる「自分は間違っていない!」と思うしかなく、私はそのような人間は虚しいと思う。

 

#自分の人生における偶然性や失敗に向き合おうとしない態度

彼らは失敗を恐れる。

失敗イコール損であり、損を恐れる。

こうしたら損だからそうしないようにしよう。これは個人のフィールドでは当然誰もが思う事だ。

しかし他人が絡んだり今回の問題のような国家が絡む問題にまで自分が損をしたくないから誰かに損して頂こうと思うような事には完全に反対したい。

自分が生きている間、つまり実存的な自分が揺るがされるのに耐えられない。

本土に基地があったら自分が危なくなる、損をする。

 

彼らは僕が思うに孤独であり、虚しいと思う。

 

#自分が何者かであろうとする気がない

彼らには本来での意味の個が欠けている。

自分が誰であるかは自分が決めるのではなく、存在する環境や他者によって自分の行動への意思決定がなされ、そこで初めて自分が個人になるのである。

これは悪い意味ではない。一見個性を蔑ろにするのかと言われるだろう。

しかしその環境や他者を見て感じて自分はここで何者かであろうとする態度こそ大衆社会で私たちが持つべき考えであり、さまざまな問題へ向き合う態度の持ち方に関して極めて重大な要素だと思える。

優しくしようとか助けてあげようという気持ちも他者を見てその感情が引き出され、他人を敬愛する自分であろうと思うのだし、激しい怒りや軽蔑の念を持つときは、誰かの為になにかと闘おうという自分であろうとする感情が生じるのである。

他人に突き動かされるという事と、自分が今そこにいて何者であろうかとする態度を彼らは無視して、まるで自分は自分であるというような気持ちを持っている。

 

@今後の沖縄へのまなざし

 

対米追従路線は崩れた。

国民の感情を動かせる装置的な物も無い。

私は米軍基地問題を国民の国への意識の問題であり、社会を捉えるという思考に活かしていきたい。

私はただ、必死に抗う者であろうと突き動かされたのである。

What I am Japanese? ...please give me reasons.

散文です。ご留意を。

 

私が思想や哲学を考えるきっかけになったものの一つに

 

なぜ私は日本人なのだろう?という疑問があったという事がある。

 

日本で産まれて日本の国籍を持っているのだから日本人である。という理由では全く納得が出来なかった。

欲しいのはそういった手続き的であったり概念創造的なものではなく、もっと根元的で情熱的な理由だ。

こういった希求はある種のロマンチシズムかもしれない。

 

よく聞くのは「海外の人は自分の国の事を嬉しそうに話すし自慢するけど、日本人って自分の国の事を自分の言葉で話すことが全然無いよね」というようなものだ。

 

確かにそうである。

日本人は勤勉で真面目で人に優しい。とよく言う。

しかしそうだろうか?  私はそうは思わない。

真にそういった人も確かに居るし、市民レベルで言えばそうかもしれない。

しかしもしそれが真実であれば、この国の状態の説明はつかないし、どこが?と思わずにはいられない。

そういった日本人の特性は外的な要因、つまり人に嫌われたく無いからというものや評価に関するからといった本能的なものではなくいわゆる外的*人間的なものだと思われて仕方ない。

 

二つ目に日本には素晴らしい文化がある。

確かにそうだ。しかしそれでは誇りであると胸を張って言うには足りない。

 

日本人に生まれた。

日本人に生まれた事を受け入れるという姿勢から自分から引き出して見ることにしよう。

 

人間は自分が他者によって自分というものを発露させられ、環境依存性が極めて高く、その中で色々な変数によって行動する意志などが決定づけられてるのだとしたら「使命」というワードが浮かび上がってくる。

 

使命といっても前述を前提とするならば自分がこうしよう、したいと思った時、それがまるで自分が考え内的に浮かび上がってきたものだと思うのだがそれは勘違いであって、何か外的な要因によって“浮かび上がらされた”ものである。

 

それは悪いことでは無い。

それを理解し、それを実現させたいと強く思う事こそそういった現実からの突破口なのである。

 

私は確信には至らないが、一つ発見した感情がある。

その説明に移っていこう。

 

最近戦争映画を見た。

 

私はこの映画を見てまず考えたのは平和というキーワードと日本人の使命についてである。

 

ご存知の通り、日本という国は核爆弾が投下された唯一の国家である。

そしてそこで重要になるのが、その爆弾投下は報復行動によってもたらされたという事だ。

その史実によって、平和を祈り、二度とあのような事が無いように世界に向けて発信し続けないといけない。という答えの一片が自分に見つかった。

 

日本人に産まれたんだから、お前らもこうしろよ。と言っているのか!とレッテルを貼られてしまうだろうが、こういった歴史的な物を反省し、伝えていくという使命を担っていると思うと生き甲斐とまでは言えないがなぜ自分が日本人なのかという命題の説明の一つになってくる気はしないだろうか。

当事者意識もないのに反省する事は難しいが、他者や国家の為に反省する。

それが国民性に影響し、国家を誇りに思えるようになるための第一歩だ。

 

なぜ私が日本人なのか?に答えられないのは、反省的になれず誇りに思うことがどうしても出来ないという人間最後の良心が残っていることを示している。