地下聖堂

Nihilism fall the underground

現代に妥協し続ける事について

様々な事柄について問題意識を持たずにはいられない、持たなければならないと思い生きるのは大変困難である。

 

例えば友人が借金で苦しんでいたり家族に災難があったりする事については私たちはごく自然に行動を起こせる。

 

しかしそれが深く関わりようの無い社会の話や世界の話になると私たちは悶々とした気持ちになる。  それは極めて退屈(動くに動けないが動きたくてしょうがない様子)であって、長い目で見据えようとしても日々考えた末に残るのは他人の実存への妥協と自我の意識のバッティングに悩まされてばかりだ。

 

このように毎日幾度となく近い記憶やスマホで見る記事から呼び起こされる問題意識との付き合い方、世界へ妥協し続けなくてはならないけど何か変えたいという欲望を自我の意識のどの場所で留めておくかについて考えたい。

 

まずは分かりやすい例から考えていきたい。

 

#私たちが日々思う権力や政治への意識

 

まず私は様々な事柄から現政権のあり方に疑問を持たずにはいられない。

質問に答える気のない官房長官、国家であぐらをかいている与党議員。

椅子に座り続ける事しか考えない人間。

将来へ金銭的にも資源的にも借金をし続け、皆不幸になるのだからと言わんばかりの経済政策。

 

こういった事柄は無垢な思考をするのであれば一言で片付く。「考えられない」と。

 

@なぜ考えられないことが世界では起きるのか

 

まず、この「考えられない」とは主観的であるようで、この意識を持つとき私は客観的に私と何者かの集まりを見ているところから出ている。

この思考法は物を考える時に大事なツールで、主観的、独断的な言説ではないのだと自分を一時納得させる事が出来る。

物を考えたり書く時に、自分のいま考えた事はいささか偽善的であったり独断的だと思ってしまい、そこで思考を諦めてしまう事が多々ある。それは単純に勿体無い。

その思考はいわゆる"過程"であり、結論ではない。というか結論など存在しない。

あえてその思考を捨て何者かになり、書く。という姿勢をそこで出現させるのだ。

 

@に戻ろう。

何故世の中でこんな「考えられない!」事が起きているのか、それを説明すると結果として結局他人の実存やその他人が作る社会構造の話になり、いきなり高い壁にぶつかる。

ここではもっと単純に思考を進めたい。

 

考えられない!とは批判的な意味を持つ。

アンビリーバブルではなく、どっちかと言うとスラングにあるブルシットに近い。

日々私たちは問題意識を持つ時にアメリカのヤンキーばりにボーシェッ!と心の中で叫ぶ。

 

考えられないとはそれに対しての拒否反応であり、知識がある無いには関係が無い。

さらには人それぞれの"優しさ"にも関係を持たない。

人それぞれに道徳感情と言うのか、物差しのような物があるだろうが、人のおおよそが道端で人が倒れていたら声をかけ助けるのであり、無視したりさらに痛めつけないと仮定しなければ私たちはこの意識を持つ事が出来なくなる。

 

ならば考えられない!をどう説明したらいいのだろうか。

それを説明できないのは私たちが他者に対して妥協をしたり実存を尊重しなければならないと無意識のうちに感じているからである。

 

酷い悪事を働いた者が居たとしても、それは私と同じ人間である誰かで、生活があり考え方がある。

そう思うと私たちはその者たちをボーシェ!と批判したくなると同時に何か憐れみに近い感情を抱く。

 

#考えられない!から妥協に逃げ込む習慣

 

私たちは日々考えられない…という感情に直面し、妥協を強いられる。

友人が苦しんでいたり家族に災難があれば私たちは妥協をしない。

しかし社会や世界に向けたその意識は私たちに妥協を強いる。

強いられるというよりは、諦めのシグナル(距離的、力学的、時間的、他者の尊厳への意識)が妥協しようという意思が無意識の間に一種の防衛反応として生じるのだ。

 

ならばその妥協をする自分を受け入れ、尚そこから先どうしたらいいのかを考える必要があるだろう。

 

次回へ。