地下聖堂

Nihilism fall the underground

新しい対立概念を希求する

政治的、イデオロギー的な対立が保守・革新という言葉からリベラル・保守という言葉に変わり今ではリベラル保守という言葉や〇〇的リベラル、〇〇的保守という言葉が生まれている。

しかし現在はヨーロッパ的な保守リベラルという概念とアメリカのそれらの概念は全く違う意味を持っており、日本も例外ではない。

混乱が生じると共に「私はリベラルです」「私は保守です」と誤用され始めもはや対立したいが為の言葉への感情移入になっていないだろうか。

 

時には革新として駒を進める事を希求する。

時には保守的に後戻りできるような”革新”を希求する。

人々の寛容な話し合いを求める。

 

というような単純な図式ではもはや合意形成は為されない。

リベラルと保守は対立する概念ではないなどの説明ではもはやこの世界のスピードには付いていけない。

可能か不可能か、現実的かユートピアかという点などから新しい”消極的な対立”をする為の概念を枠組みから脱するという形で求めていこう。

 

与えられるべき自由 と 求められるべき自由

 

自由である。という事を完全に証明しようとするならそれは生を失う事でしか答えを得る事が出来ない。もしくは明晰夢のようなものだろうか。

少なくとも個人は社会に属し国家に属し世界に属す私人であり、そこには他個人つまり他人の私への介入や私の他人への介入を許容し合う以外に存在する事が出来ない。

 

個人が社会に自由を求める  世界が国家に自由を求める

社会が国家に自由を求める  国家が社会に自由を求める

国家が世界に自由を求める  社会が個人に自由を求める

 

このパラドクスから抜け出す事はこの世界では不可能だろう。

与えられるべき自由という理念では何も解決する事が出来ない。

 

【世界ー個人的】な求められる自由を説明するとなると啓蒙的な理念ばかりが頭に浮かび、現実に対しての虚無感が増すばかりである。

簡単に言えば世界が国家に自由を与え・・・としていく時に最初の段階で私たちは躓いてしまうからだ。

絶望的という一言で示すのは不甲斐ないがカルテも無ければ処方箋すら書き出せない。

 

平和について語る時に「こうなれば良いよね」といった具合で始まった議論が「いやでもそれを成立させる条件がまず無いよね?」「成立し得る世界とは何か?」と不可避的なニヒリズムに陥る。

 

対立概念β

 

・巻き戻す事を理念として先に進むという理念

 

・先に進みながら問題を解決する事を求める理念

 

この二つを見た時にイメージする事は何だろうか。

 

【A氏(前者派)】

前者は”明らかに間違っていた”事を正し、過去が現在に与えた影響を未来の為に正すという考え方であり”そのままにしておこう”的な物を排除する事によってよりよい議論や合意形成が出来る。

崖から落ちるまで巻き戻しによるコストに怯えているのはもうやめよう。

 

後者のように過去には戻れないという盾を作り、そのままにしてなんとか突然変異を待つ、むしろ塗り替えようとする世界に未来はあるだろうか。

 

【B氏(後者派)】

テクノロジーや現実的な面から後戻りという意見には賛同し難い。

完全に正しい事は求める事が出来ないし間違いを正す事は進みながらでも出来る。寛容に意見を交換する事を望むが何かを止めようという決定をした時にDevolution(退化)する事を私たちは望まない。

 

2017.12.9(sat)